├─≠ョ─ヵラス 武田鉄矢├─≠ョ─ヵラス 武田 鉄矢(たけだ てつや、本名=同じ、1949年4月11日 - )は、日本の歌手、俳優、タレント、作詞家である。フォークグループ「海援隊」のヴォーカル、リーダー。称号は名誉学士(福岡教育大学)。武田鉄矢商店代表取締役社長。
代表曲に「母に捧げるバラード」、「贈る言葉」、「あんたが大将」、「思えば遠くへ来たもんだ」(いずれも海援隊)[1]などがある。身長166cm。血液型O型。
目次 [非表示]
1 来歴・人物
2 受賞
3 エピソード
3.1 音楽面
3.2 俳優業
3.3 その他の活動
3.4 趣味、嗜好
3.5 その他
4 シングル
4.1 ソロとしての代表曲
4.2 デュエット曲
4.3 武田鉄矢一座としての曲
5 提供曲(作詞)
6 出演番組
6.1 テレビドラマ
6.2 バラエティー番組など
6.3 映画
6.4 出演CM
6.5 ラジオ番組
6.6 Webドラマ
7 舞台
8 ものまねをする人物
9 その他
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク
来歴・人物 [編集]
1949年(昭和24年)、福岡県福岡市博多区生まれ。福岡市立板付小学校、三筑中学校、福岡県立筑紫中央高等学校卒業。坂本龍馬の研究を志して当時一期校だった高知大学文理学部(現・人文学部)に2年間挑戦するも失敗に終わる。一浪後、二期校で合格した福岡教育大学教育学部障害児教育教員養成課程に入学。しかし、7年在籍するも中退。芸能界で失敗しても大学に戻れるよう母・イクが学費を払い続けていたという。なお、武田の両親は熊本県小国町の出身[2]。
1972年(昭和47年)10月25日に、千葉和臣・中牟田俊男らと海援隊でデビュー。当初は全く売れなかったが、武田が母・イクに向けた詫び状を歌にした「母に捧げるバラード」(1973年)がヒットし、翌年の第25回NHK紅白歌合戦に出場。
その後はしばらく低迷したが、映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)でのさえない青年役が高い評価を得て、俳優としての新境地を開拓。海援隊としても再び注目され、ドラマ『3年B組金八先生』(1979年)のヒットとともに主題歌の「贈る言葉」も大ヒットした。1982年(昭和57年)12月の海援隊解散後は、ソロ歌手・俳優・作家として活動。歌手活動としては、「男と女のラブゲーム」(芦川よしみとのデュエット)(1987年)、「声援」(『3年B組金八先生』第3シリーズ主題歌)(1988年)などのヒット曲がある。海援隊は1993年(平成5年)4月10日の「ドリームライブ in 福岡ドーム」のために1日だけ再結成され、翌1994年(平成6年)に本格的にグループとしての活動を再開し、現在に至る。
福岡教育大学は中退になったものの、武田の『金八先生』シリーズでの長年の活動を評価し、2008年(平成20年)に、国立大学法人理事会で特別に名誉学士号(6月に制定。第一号)を授与することを決め、武田本人も了承した。9月12日に、授与式と学生とのトークイベントが行われた。名誉学士号授与の条件として福岡県の教職員の卵達に人生で学んだことを話す機会をたまに設けることを求められ、本人も快諾している[3]。2010年(平成22年)5月12日には福岡教育大学の特命教授(大学活性化の為に、学長の任命で無償での教育研究活動に従事できる)に就任し、『風の又三郎』をテーマに90分の「賢治の小説は童話ではなくミステリーだ」と論じる講義を行なった[4]。
また、漫画原作者として『お〜い!竜馬』(画:小山ゆう。テレビアニメ版では武田が主題歌を担当)と『プロゴルファー織部金次郎』(画:高井研一郎。武田主演で実写映画化)の2作を手掛けている。
受賞 [編集]
1977年 第2回報知映画賞新人賞(『幸福の黄色いハンカチ』)
エピソード [編集]
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音楽面 [編集]
「母に捧げるバラード」(1973年)の「今も聞こえるあのお袋の声」の部分のメロディは丸山明宏(現:美輪明宏)の「ヨイトマケの唄」の「今も聞こえるヨイトマケの唄」を模倣したと、2007年(平成19年)放送の『オーラの泉』で美輪本人に告白している。
映画『ドラえもん』の第1作目 - 第17作目(第5作目を除く)のエンディングテーマ曲の作詞を務めた。6,11,13,15,16作目は武田が歌っている(6,11,13作目ではソロ、15作目は「武田鉄矢一座」、16作目は海援隊として歌唱)。17作目も海援隊が歌を担当しているがこの作品のみ千葉和臣、中牟田俊男が歌っている。10作目の主題歌は後にセルフカバー。かねてより原作者の藤子・F・不二雄を尊敬していたが、藤子の逝去に伴って「藤子先生が亡くなった今、僕は『ドラえもん』の映画の作詞を引退します」と宣言し、同劇場版シリーズの楽曲参加を勇退した。その後、映画『ドラえもん』30周年を記念し、2010年(平成22年)の劇場版『ドラえもん のび太の人魚大海戦』で14年ぶりに挿入歌を手掛けることが決定した。
BS-i連続テレビドラマ『恋する日曜日』セカンドシリーズで『僕の部屋から』というドラマが制作された際に、主題歌「僕の部屋から」の作詞を担当した。
「少年期」は『ぼくドラえもん』第7号(小学館刊)で読者が選ぶ「ドラデミー大賞」主題歌賞に選ばれた。
別項にあるように坂本龍馬を敬愛しているため、武田は龍馬が亡くなった年齢(33歳)と同じになった年(1982年)に海援隊を解散(後に再結成)した。ただし龍馬の「33歳」が数え年であったのに対し、武田の「33歳」は満年齢である(龍馬は満31歳だった)。
俳優業 [編集]
俳優としては山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977年 松竹)がスタートであり、デビュー作ながら日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞する演技を見せた。同監督作品の『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』(1978年 松竹)にも出演。『刑事物語』シリーズ(1982年 - 1987年 東宝)の片山刑事役で、本格的な中国拳法、秘門派「蟷螂拳」や自ら考案した「ハンガーヌンチャクによるアクションシーン」を披露したり、個性派俳優としても活躍。ハンガーヌンチャクを使う殺陣上ではハンガーを振り回している最中、指から摩擦で煙が出てきた逸話をもつ。
海援隊でデビュー後、低迷して落ち込んでいた武田を救ったのは、ひょんな出来事だった。山田洋次がたまたまパチンコ屋の有線放送で耳にしたのが「母に捧げるバラード」で、山田はふとこのシンガーに興味をいだき、さっそくコンタクトを取った。そして武田の人となりを見て、『幸福の黄色いハンカチ』に抜擢したという。
最も影響を受けた俳優に高倉健と渥美清の名を挙げている。
『幸福の黄色いハンカチ』で俳優業は当初から乗り気ではなく、舐めてかかっていたらしく、桃井かおりからやる気のなさを指摘され「お高く止まっている」と仲が悪く、大層気に食わなかった。ケンカをするシーンでは、感情を剥き出しにしてケンカをし、山田洋次から高評価を受けた。また、撮影前日に大騒ぎをして、二日酔いの状態で現場に来て高倉健に大目玉を喰らった。
テレビドラマは、1979年(昭和54年)にスタートした『3年B組金八先生』(TBS)の坂本金八役が一番の当たり役となりシリーズ化されている。NHK大河ドラマ『徳川家康』(1983年)での豊臣秀吉役、『太平記』(1991年)での楠木正成役、『101回目のプロポーズ』(1991年 フジテレビ)でのさえない中年・星野達郎役など、印象深い役を数多く演じている。『金八』シリーズ当初は一般人に役名である「金八先生」と呼ばれるのを快く思っていなかったが、渥美清に「役名で呼ばれるのは滅多にないすごいこと」と言われてからは快く思うようになった[要出典]。
2006年(平成18年)、大河ドラマ『功名が辻』で主人公・山内一豊の古参の家来・五藤吉兵衛役のオファーがあったが、『竜馬がゆく』の敵役(土佐藩上士)の先祖を演じることに抵抗があり、当初は拒否したという。後にNHK側から「土佐に入る前に死んでしまう役ですから」と説得され、出演することとなった。共演の前田吟とともに、「これが最後の大河出演」と決めていたらしいが、『龍馬伝』で前言を撤回、勝海舟を演じている。NHKでのハイライト放送では勝役を「俳優業の集大成」、そして「先生冥利に尽きる」と語っている。
西田敏行とは、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』でコント共演をして以来、家族ぐるみの付き合いをしている。「西やん」、「鉄ちゃん」と呼び合うほどの親友である。2010年(平成22年)にはNHK-BS2のBSエンターテイメント「西田・武田の笑モード」で久しぶりに共演している。
『金八先生』シリーズの各卒業式で生徒に贈る言葉は最初は3行の台本を20分掛けて喋るというが、直近のシリーズではスタッフがわざと台本の台詞部分を空白にして全て武田のオリジナルで語っている。これが本人にとっては大きな負担であり、贅沢な悩みになっている。
その他の活動 [編集]
テレビ朝日で1984年(昭和59年)1月8日にスタートした報道番組『鉄矢のびっくり外報部』(1985年4月からは『鉄矢の地球トピックス』に変更)で、日本初のニュースアンカーマンを務めた。
ゴルフや歴史マンガの原作(後述参照)も担当してきたが、遅筆であるらしい。
日活ロマンポルノの看板女優であった高倉美貴と第8回日本アカデミー賞の司会をしたが、当時高倉は雑誌などのインタビューの度に「武田鉄矢さんが」「武田さんが」と武田の名前を所構わず連発していた。武田の出演する映画には高倉もよく出演していた。
『3年B組金八先生』の劇中で「学生時代柔道をしていた」というのは事実であり、後の五輪メダリスト・上村春樹と対戦したこともあるという。
本人自身も指摘しているように自身の個性は強烈で、映画『思えば遠くへ来たもんだ』主演の頃の濃密なキャラは当人が無自覚のものである。ダウンタウンの松本人志に「なんなんですかねぇ、アレ」と問われたとき、「アイシャドーなど、特殊メイクしているようだ。ありゃ人間じゃねえ、化けもんだ」と答えた[5]。
武田が大学時代の教育実習である授業を受け持った際、教室いっぱいに落ち葉を敷き詰めて、武田はニワトリの格好をして授業を行なったという。結果、ある教官の一声で「優-良-可-不可」の評価のうちの「優」を取ることができたとのこと。
坂本金八は理想主義者、リベラリスト的だが、これはあくまで脚本家の小山内美江子の設定である。本来の武田は九州男児ならではの考えがあるとされているが、そのことをマスコミ出演時に語ることは少ない。
趣味、嗜好 [編集]
高校時代に読んだ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響からバンド名に「海援隊」と名付けるほど、坂本龍馬を敬愛しており、龍馬役や竜馬に関連する人物の役をすることがある。金八先生の名字の『坂本』は龍馬の姓に、金八の娘の『乙女』は龍馬の姉の名にちなんだものである。また、ソフトバンクモバイルのCMでは坂本龍馬のかぶれ者として登場しているが、龍馬かぶれを揶揄した犬の中の人は大河ドラマ『竜馬がゆく』で龍馬を演じた北大路欣也である。また、『龍馬伝』で演じる勝海舟は2008年(平成20年)の大河ドラマ『篤姫』で北大路が演じた人物である。
無類の酒・女性好きとして有名。また、坂本金八役を長年務めるが、素の武田は子供嫌いである。ちなみにお気に入りの女子生徒は、第6シリーズで3Bのマドンナ的存在だった赤嶺繭子役の佐藤めぐみで、上戸彩によると本当は哲が繭子に抱きつくシーンはなくて、武田が創作し、演技指導と称して武田が佐藤に抱きつくというセクハラ紛いの実演もしている。その他第2シリーズの大川明子によると、迫田八重子役の川上麻衣子や赤上近子役の伊藤つかさはNGを出しても叱らなかったのに対し、大川や立見八千代役の中村美奈子らには邪険に扱い、思い切り叱り飛ばしたという。そのギャップのため、プライベートで遊ぼうにも女性から教え子のように接して来られてうんざりしていたそうだが、年を重ねるにつれ役柄を自然と受け入れられるようになったという。酒では、特に焼酎のお湯レモン割りが好み[要出典]。
山崎静代のヌード画を描いて、彼女の誕生日にプレゼントするなど絵画の趣味も持ち合わせている。ただ山崎は、この行為を「気持ち悪い」と語っている。二人ともTBSテレビ系連続ドラマ『夫婦道』で父娘役で共演していた[6]。
AVの草創期時代から造詣が深く、豊丸が勤めるバーの常連であったという。
大沢あかねを蒼井そらと間違えたことがある。詳しくは「オールスター感謝祭#無名芸能人犠牲者続出」を参照。
谷村新司と並ぶニューミュージック界の二大ビニ本マニアとして知られ、一時期は『3年B組金八先生』の収録終了時に、卒業記念として男子生徒役の役者に自分のコレクションをプレゼントしていたが、加藤優役の直江喜一と松浦悟役の沖田浩之は当時既に18歳だったため、「お前ら二人は自分で買え」とのことで武田のコレクションは貰えなかった[7]。また、この二人には、期待度が高かったため、特に厳しくしていた[要出典]。
『3年B組金八先生』の若い出演者(岩沼幸一郎)を、撮影終了後の打ち上げの際にソープランドに連れて行っていたと暴露されたことがある[要出典]。
プロ野球は福岡ソフトバンクホークスのファンである。ちなみに、幼少時は西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)のファンだった。その後は読売ジャイアンツと掛け持ちである。
運転免許を取得したのがかなり遅く、47歳であった(本人曰く「取得に20年かかった」)。そのため、『幸福の黄色いハンカチ』では運転するシーンはトレーラーでけん引しながら撮影された。この免許取得の経験が、ドラマ『教習所物語』の原案に繋がっている。
語ることが好きである。NHK大河ドラマ『功名が辻』の収録では本番直前まで、共演者であり同じく話好きである前田吟とずっと話し続け、本番の際にセリフを忘れることがあった[8]。
政治的には保守のスタンスをとっており、政党では自民党を支持していることを公言している。
『金八』シリーズの出演者で、「すごい」と思ったのは浅井雪乃役の杉田かおる(現場でのオーラが半端ではない)、鶴本直役の上戸彩(演技に対するこだわりが素晴らしい)。誇りに思っているのが加藤優役の直江喜一(建築士になったのは立派)[要出典]。
その他 [編集]
母親譲りの大阪嫌いとして有名で、2007年(平成19年)4月4日にTBS系列で放送された『笑福亭鶴瓶のメインキャスト!』において、「数を数える時に節を付けるのがおかしい」「大阪は他人に頼ってきたから主体性が無い」、朴訥な九州人まるだしの九州弁で、「大阪人は信用できん」「すぐに人を騙す」などといった差別主義的な、ステレオタイプな内容の発言をしている。また、ドラマの控え室で大阪府に居住歴のある木村拓哉にずっと大阪に対する悪口を吹き込んでいたため笑福亭鶴瓶が止めに入ったが、武田はそれに対して「大阪のどぶ鼠が!」と罵っている。この件について笑福亭鶴瓶は、テレビ東京系列で放送されている『きらきらアフロ』で「根に持っている」と、『ヤングタウン日曜日』でも一連のやり取りを発言するなど不満を表明している。2007年(平成19年)7月6日放送の自分のラジオ番組内で森元総理の失言(大阪に対する悪口)を具体的に紹介、隣にいたもう一人のパーソナリティを大笑いさせた。これらの笑福亭鶴瓶とのやり取り対し、武田本人は「笑福亭鶴瓶とのケンカみたいに、芸能人の営業のうちだよ」と答えており、「芸能人の営業」のために大阪や大阪人を揶揄しているともとれる発言をしている[9]。その一方で、自身が緒方洪庵役で出演する『JIN-仁-』では、緒方の大坂居住歴が長いことに着目し、当初標準語であった台本の台詞を上方言葉に改めて演じている[10]。
教育現場のいじめ問題について、ドラマ内ではロールプレイング授業を通じていじめられっ子の立場や心理を理解させようとする進歩的な取り組みがあったが、彼が作詞した「贈る言葉」の中には「やさしさ」を求める風潮への批判めいた歌詞があり、自身の発言でも「いじめる奴にどんなに説教しても変わらない。大事なのはいじめられている奴を鍛えること」「ユダヤ人はいじめられたからこそ財をなす民族に成長した。経済の発展にはいじめこそ必要不可欠」と、いじめを肯定的に述べている[要出典]。
長い髪の毛がトレードマークと言ってもいいほど有名である。物まねされるときは必ず初期の金八のヘアースタイルだった長髪のカツラが使われ、耳元の髪を後ろに掻き分けながら博多弁で「何ですかぁー!」と言うのがものまねの定番になっている。『金八先生』第3シリーズで、なぜ長髪なのかという生徒の質問に「頭がでかいから(それを隠すため)」と答えるシーンがある。
よく知られるように武田のその濃いキャラを使ってネタ元にするお笑い芸人は後を絶たず(ウッチャンナンチャン、ダウンタウン、清水ミチコ、山田邦子ほか)、「武田ツウ」と呼び継承されている。また武田もそれを人気アップへ意識的に逆利用している。
「鉄矢」は本名であるが、大学生の時まで「鉄也」だと思い込んでいた。これは親が「鉄也」と教えていたためであり、試験の際に記入した氏名に対して、担当教官から「ペンネームを使うな」と指摘されたことで発覚した。両親も届け通りの本名を指摘されるまで忘れていたという。本名発覚当初は「鉄砲でも矢でも持って来い」というような投げやり感漂うこの字面に困惑していたが段々と受け入れ、使用するようになった[11]。
既婚者で娘が二人いるが一般人のため、公表されていない。
弟子に女優兼事務所のマネージャー補佐の大川明子らがいる。